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2013年6月13日 (木)

《substance》桃花峡へ展、テキスト「その在所」全文(平井亮一氏寄稿)

「sonozaisho-hirairyouichi200503.doc」をダウンロード

山梨県増穂町、春鶯囀蔵元、株式会社萬屋醸造店内、酒蔵ギャラリー六斎にて催された、北村周一・塩島敏彦(絵画と宝飾)展のおりのカタログより、テキスト全文の紹介。

2005年3月24日~4月17日、桃から桜へ、花咲きみだるる頃、開催された。

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そ  の  在  所

 

平井亮一

 みもふたもないはなしですが、なにがしか物と観念とのあいだで、なにごとか眼でみる表出体を造作するというのが、さしあたり美術の営みであるとするなら、そのような造作をあらしめ、それとみとめるさまざまな要素・条件のいわば複合のありようがまず問われずにはいないでしょう

営為がこうした複合においてなにものかでありうるのなら、その複義的な機制こそがここではまさに「サブスタンス」に相当するのではあるまいか。こう解釈するなら、日頃から、箸にも棒にもかからない現代の雑多な美術現象に接するのを楽しみにしている一人の観客として、当方も、それらに指ひとつふれはしないもののそうしたサブスタンスのありかについては、やはり相応に思案をめぐらしておかなければなりません。

 近ごろはすでに世に出た図版や写真はむろん、日常物品、印刷資料までもちこんでの設営なぞは日常空間と接するまでにいたっています。とはいいながら、そこでもいぜんとして、もちこんだ事物と実践者とのあいだにうまれてしまうなにがしかのサブスタンスつまり統合の形成は否定できない。なにかのデータ表を壁にかかげただけでそうなる。概念の提示を標榜したジョゼフ・コススによる一連の仕事なぞはそうしたパラドックスなしにはありえなかった。これとて、ことばなり概念の表示を最低限ながらととのえるという媒体の形式化、この抑制された様態においてわれわれは作品をみている。さもなければことがらをしるす文書を机上で読むだけでことたりるでしょう。そしてむろん、概念そのものはそうするほうがより明確につたわる。なにもパネル仕たてで壁に、それもタイポグラフィや図示の首尾を吟味して並べることもないのです。こんな例はほかにいくつもある。

 げんに、これらの営為にみとめられる知覚や認識の異化・撹乱は日常性の延長や屈折であることが多いのです。私たちはそうした異化・撹乱の様態を眼にしているにすぎない。そこになにほどか意味作用をみとめるにしても、これはなんらかの認識表出のそれも事物をとおした移しかえを眼前にすることになるだけでしょう。いっぽうでことがらのこうした韜晦つまり表出法の移しかえは、たとえば文彩でいう隠喩だの直喩だのといった喩えの考案と同様にかならずしも意味の産出ではありえない。もっというなら、私たちは、そうしたことさらな異化・移しかえの様態と首尾をみる。裏をかえせば、むしろそのことが営為の存在理由なのかもしれません。

そこで当方は、こうしたことさらなる実践を事物の媒体化といいたい。媒体ではなくあくまでも媒体化なのです。

 媒体化というのは、なにかのメッセージなり意味を媒体にのせて伝えるということではありません。画布やえのぐ、鉄や銅、写真や印刷、身体や空間、ひいては情報や日常物品などなどを媒体化する。それらの媒体化において事物を参照する、といってもいい。そこで眼にするのは、それが何を参照していようとそうした媒体化の様態でしかないというわけです。その様態をめぐって実践者も観客も、むろんそれぞれちがった場所でそれぞれのサブスタンスのありようをみさだめようとする。そこにみるのはなにか内容といったものではなく、様態がらみサブスタンスの形成ではないだろうか、ということです。

まずはしかるべき物質や装置において表出をこととする美術では、なににもましてそれらの強いる度しがたい他者性との眼にみえて具体的なかかわりのもとでのみ、ことがらが始まる。物の仕組みは観念の表出ではなく、そうしたかかわりの様態にサブスタンスの生まれるのをみるというべきかもしれません。たとえば、はじめから絵という実体はないけれど、モティーフがあろうとなかろうと媒材とかかわることのサブスタンス(統合反統合)という実践形式はたしかにありうる。それが絵画であろうと。それでこれがなお、なにかの意味あるいは内容をつたえるかといえば、かならずしもそうではないのです。若い小説家、山崎ナオコーラなぞは「絵」をみても「作者の頭の中に<本質>があるわけではない。覗いても、想像しても、せんないことだ」と切っていますが、むしろ媒体化に気づくやいなや、そこではわけありの中身が器になってしまうのではないか。

ちなみに、物質その他をなにごとか表出のためのたんなる媒体とするか、それをことがらの媒体化とするか、このちがいが営為としてあらわになったことが、美術のいわゆる近代と現代をわけるひとつの指標たりうるとするのはさしあたって観客たる当方の目安でもあります。

それでも、しかるべき意味の再現、ことがらの伝達といった表象はたしかに可能でしょう。しかしこれとてそうしたサブスタンスをそこにみたてることによってです。そのちがいがこれまで様式や流派のちがいを画してきた。そうすると、拡散する現代美術にはなんでもありというより、じつは美術として何が媒体たりうるかあれこれ試され理由づけられているというのが実態なのではないか。

このようにあれこれの媒体化が、現実生活など外部とさまざまにかかわりながら、しかし別のことの発生であるのは、むろんそれが、物質と観念とのあいだであのサブスタンスをあえてかいまみようなどという余計な所業であるせいです。そうした意味で、かかわりがあっても現実生活との隔絶はもともと避けがたく、生活いや、ひとびとの留保する生、この充溢にとってこれはひっきょう一種のディストピアであるとさえいわなければならないようです。またそうであればこそかえって、媒体化それぞれを生に対するある余剰なるものの存立として思いさだめることもできます。そういえば、みたされた生活者にそもそも「芸術」など存在しえない、というような意味のことをいったのはトーマス・マンでしたか。そのかわりこのディストピアは、せいぜい、こちらがわの生の充溢を対蹠的にいっそう自覚させずにはいないなにものかなのです。たとえば雪舟だのモネだのの風景画にしてからが、考えてみれば画面へのこうした関与じたい癒しであるどころか生の充溢からの外れではなかっただろうか。

さて、ことがらの媒体化は媒体の物性なり装置の条件に規制され、必然的にそれぞれの特性をもちます。そのかぎりでそれらは画然と構造を異にし、現代美術の何でもありといった様相にしてからが、こうして社会状況であれ、生活物品であれ、伝統造作であれ、参照する領域を広げながら進む事物の媒体化の分化・複合過程と当方はみております。にぎやかなことで、好みの媒体はかぎられても興味がむくのは事物のそうした反転の多様な首尾。

そういえば、もう古いはなしですがマーシャル・マクルーハンの命題「メディアはメッセージである」はいっときもてはやされました。そのかれが「すべてのメディアの中身はつねにもう一つのメディアである」ともいってるのはなお注意をひきます。媒体化がさらにべつの媒体化をはらまずにありえないという意味で、いろいろな事項を参照しながらも必然的にたどる自己分節の方途をついているからです。

せんだって、ある百貨店のそれもアクセサリー・コーナーにまぎれこんだことがあります。ケースごしに貴金属、宝石、真珠いずれも細工にみごとな光彩がたゆたい、おもてはきれのよい光輝をはなっていて、たまさかの経験とはいいながら、当方といえども匠の妖しさにいささか胸走りをおぼえずにはいられませんでした。それにしてもこれら宝飾品は、相応の場所に置かれひとびとの身につけられてこそ、入魂の彫琢はもとより素材もほんらいの光彩と光輝をはなつのではないかとあらためて思わずにはいられなかった。これは、貴重な素材を媒材にして彫琢の贅をつくしそれを現実生活の荘厳にさし戻すことなのですから、サブスタンスは用としての現実認識と、匠としての表出認識のあいだで、できるだけ双方を重ねることにある。そしてむろん、これは素材の媒体化なぞではありません。宝飾品をみての昂揚感、充足感も、媒体化などというよけいな屈託なしにみることができるせいにちがいないのです。

塩島敏彦さんの作品が、貴重な素材に「第一任者」としてのたしかな手法、さらにせんさいな審美眼がいっしょになっている以上、完璧な宝飾品たりうることは疑いありません。それだけに、これをひとが身につけるそこでこそ光彩は本来の美しさに届き、たしかな「感動」も生まれるのだと思います。宝飾の仕上りが完璧であることで私たちの心はやすらぐ。貴金属や宝石がこのような匠の媒体でありつづけることで宝飾は安定しさらに彫琢をきわめてゆくでしょう。

これは当方の仮想にすぎませんが、かりそめにもせよ匠とのあいだで素材それぞれの特性や物質的な条件のはかりがたさにふれ、相応に匠の規矩がゆらぐなどなお相対的な可能性が示唆されるようなことがあるなら、どうでしょうか。素材のこの些細な疎外によってさえも、素材は媒材であることからはなれるかもしれません。このさきは、媒材になにをもってこようが、それとのかかわりがあらためて問われ、当事者はそれに応じてゆかざるをえない。こうした事態はしかし、生きる身辺を飾るというまっとうな中身をまんざら無視できないまでも、ことがらは媒体化へとすでに変容しています。そのさきはあの依怙地な岡本太郎のこだわった永久に腰かけられない椅子ではないけれど、宝飾も媒体化の分節を進め、身につけようにもなにか得体の知れない造作物となり、いっぽう身につけるほうにもわが身の媒体化をおよぼし、この造作物とのかかわりを演ずるようなパフォーマーたることをうながすことになるかもしれません。こうした想像は楽しくもあります。そしてもとよりこれは、塩島さんのみごとな仕事となんのかかわりもないことでした。

なにかが媒体でありうるのも媒体化のありようにまつわる当事者のしかるべき決定によってです。現代がそうした媒体化と媒体であることとのきわどい界面を指し示すことにたちいたったのは、あるいはそれがモダニズムと呼ばれようと呼ばれまいと原理的ななりゆきでしょう。いっぽうで、用という現実認識と、匠という表出認識とはその造作物においてまさに一体化されもする。この場合そうした造作物として素材ぶくみの媒体が固有化されるのです。宝飾でもおなじでした。

ここで、これも観客として目安にしたいのは、素材が当初から用と匠と一体となる造作物として固有化された媒体であることと、いっぽう素材の媒体化をおこなうこととは、程あいの差はあってもべつの範疇の方途であって、そのあいだであいまいな混交領域は消えるほかないということです。媒体化はそのままべつのことの始まりなのですから。

早くから画布など媒材とのかかわりにまつわるさまざまなことがらを一定の局面で示し媒体化のかたちをたどってきたのは、北村周一さんの仕事でしょう。いっとき線の囲みか連続かの両義性の領する画面を一種の充溢状態にしながら、それを平明なかたちにする独特な統合の実践形式を追っていました。このところ、おそらくは身辺の環境を参照しながらでしょう、色彩の対比にも着目し、線がつむぐ空間になにか予期しない視像の出来をためすことをくりかえし、しだいにドゥローイングの集積をやわらかい影のように重ねるにいたっているようです。このように画面とかかわるのは、思うにこの画家にとってそれが媒体化の様態をたしかめる方途だからです。なんの意味もないけれど、ひとびとの眼差しを重層する影のはざまへとくりかえし誘いこむ画面。

二人の「コラボレーション」、ここにあるのはサブスタンスの在所のまぎれもない対蹠でもある。とこう想像するのは、当方にとってとても刺激的なことです。

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